地球が見える 2008年
コート・ダジュールのリゾート立国、モナコ
図の中心部、ヴァール川の河口に白く目立っているのは、敷地面積3.7km2のニース・コート・ダジュール空港です。モナコは赤く四角で囲んだあたりにあります。フランスに食い込むような形の4kmの海岸線を持ち、総面積は約2km2(皇居のほぼ2倍、コート・ダジュール空港のほぼ半分)です。バチカン市国に次いで世界で2番目の小さい国です。 図1右下にある真っ直ぐな白い線と黒い線は、飛行機雲とその陰です。ちょうど飛行機雲のできた方向と太陽の入射角がほぼ同じとなって写真の傷のように見えています。
モナコが歴史上の文献に登場するのは古代ギリシャ・ローマ時代で、天然の良港として、船舶の避難所として地中海を行き来する人たちを通して有名になりました。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がガリア戦争(紀元前58年〜紀元前51年)の帰途にモナコを通ったという記録がありますが、モナコが歴史に再度登場するのは12世紀になってからです。神聖ローマ帝国の支配下でモナコからリグリア地方(イタリア北西部、フランス南東部)の地中海沿岸の支配権はジェノバの執政官に握られていました。当時、北イタリア周辺は、ローマ教皇と帝国皇帝でもあるドイツ皇帝との間の権力争いにゆれていました。現在、宮殿のある岩山に最初の要塞が築かれたのはこの戦いのさなか、13世紀始めごろです。 1297年1月にローマ教皇支持派のフランソワ・グリマルディが修道士に変装し、断崖絶壁をよじ登って要塞に侵入、ドイツ皇帝支持派を滅ぼして以来、グリマルディ家がモナコを統治し、繁栄を続けてきました。この地がモナコ・ヴィルで、人々は親しみをこめて「ロシェ(岩山)」と呼んでいます。西側に見えるレンガ色の屋根は大公宮殿です。東側の屋根が密集したところは旧モナコ市街です。 近代モナコの輝かしい歴史は19世紀半ばの近代ヨーロッパが形成され、ヨーロピアン・エレガンスが開花したベル・エポック期に始まります。当時、周りの領地と経済的基盤を失い、めぼしい産業もなく小さな村にすぎなかったモナコに、当時王侯貴族や富豪たちの社交場になっていたカジノを導入し、ホテルを建て、海岸を整備して海水浴場を作ることを思いついたのが、当時のグリマルディ家の盟主シャルル3世でした。 以来、カジノと海水浴のできる観光地として開発が進められ、1866年、新しく開発した海岸地一帯はモンテカルロと名づけられ、世界中から毎年500万人を越える観光客や国際会議などの催し物への参加者が訪れるモナコの中心となっています。最も有名な催し物の一つが1929年から毎年5月ごろに開催(1938〜1947年は第二次世界大戦のため中断)されているF1モナコ・グランプリです。一周3,340mのモンテカルロ市街地コースをおよそ2時間で約78周して競われます。 海岸にある六角形の屋根を虹色に塗られたコンベンションセンター(レニエ3世館:1979年オープン)から半径220mの中には、5つの豪華ホテル、数多くのレストラン、130年の歴史を誇るカジノ、さらにカフェ、プール、ナイトクラブ、ディスコ、映画館、高級専門店などが集積しています。 また、モンテカルロの北東にあるラルヴォット地区は海岸線が埋め立てられて、東端にレジャー施設「スポルティング・モンテカルロ」、続いて公共のビーチがあるほか、1994年に完成した広い緑の日本庭園をもつ新しいコンベンションセンター(グリマルディ・フォーラム)が続いています。 一方、モナコ・ヴィルの南には東西にヨットハーバーを持つフォンヴェイユ地区があります。ここは埋め立てにより1972年に完成した土地で、これによりモナコは16%の領土を拡大しました。いざとなれば人口(2000年国勢調査時、32,020人)の半数を収容できるルイ2世スタジアム、グレース王妃のバラ園、ヘリポートなどがあるほか、オフィスビルやモナコの生活機能を担う電気・ガス局やごみ焼却場などがあります。また、ここには化粧品や医薬品、精密機械部品など無公害でモナコの環境とイメージを損なわないような製造業が厳選して誘致されています。 2006年のモナコ政府収入の約52%が観光やコンベンションによる売上税で、カジノ収入は約5%と、かつてのカジノ依存からは完全に脱却しています。モナコと日本の外交関係は2006年12月に開設され、2007年4月にはアルベール2世公殿下が来日されました。
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