地球が見える 2007年
サムライも訪れた美しい港町、メキシコ、アカプルコ
アカプルコはメキシコの観光開発の先駆けとして第二次世界大戦後に開発されました。ハワイやキューバ、そしてヨーロッパよりも近い高級リゾートとして北米の人々を中心に受け入れられ発展してきました。特に1959年のキューバ革命以降、外国人観光客が減少したキューバに代わって人気のリゾート地として、その地位を確かなものにしてきました。
半島の付け根にはスペイン語で「広場」を意味するソカロがあり、そこを中心に旧市街が広がっています。半島の付け根東側からビーチ沿いの道路を2kmほど東に行くと、ババガージョ公園があります。ここには熱帯性の木々や花が植えられて、何種類もの野鳥が生息しているそうです。公園のところからビーチ沿いに数kmにわたって高層ホテルが立ち並んでいる様子が、地面に陰を落としていることで分かります。ビーチの東端のところには、褐色の長いデッキを擁する船が見えますが、船の北東にある三角形の広い敷地内に白く丸い石油タンクがいくつか見えることから推測して、船はタンカーだと思われます。 長いビーチの中ほどには明るい緑色のゴルフ場が見えており、ゴルフ場の南東の海岸にはCICI(シシ)というテーマパークがあって、人工の波が押し寄せるプールやウォータースライダー、イルカのショーなどのアトラクションが行われる水槽が水色に見えています。アカプルコは年間300万人が訪れるリゾート地となっています。
また、埠頭の対岸にはヨットクラブがあり、多数の小型船舶が係留されているのが見えます。ヨットクラブ南西の半島内部に闘牛場がありますが、白い円を取り巻く褐色のスタンドとして見えています。アカプルコ名物の「死のダイビング(ラ・ケブラダ)」は半島の付け根西側の太平洋に面した入り江で行われ、40数メートルの切り立った断崖から白く泡立つ海面めがけて飛び込むそうです。客船ターミナルのすぐ上に見える五角形の星形は、16世紀に海賊から町を守るために作られたサンディエゴ要塞です。大地震で崩壊した後に総石造りで再建され、周囲を堀でめぐらした建物の内部はアカプルコ歴史博物館になっています。 アカプルコは16世紀の初め、スペイン人エルナン・コルテスが上陸した頃には先住民の小さな村があるのみでしたが、比較的波が穏やかで港に適していたため、スペインのアジア貿易の重要な中継地として急速に発展しました。それから100年の後、1613年9月(慶長18年)には支倉常長(はせくらつねなが)が、仙台藩主伊達政宗の命を受け、180人余の慶長遣欧使節を率いて日本を発って3ヵ月後にアカプルコを訪れました。使節団はメキシコシティーを経由し、随員20数名を連れてメキシコ湾岸から再度船出してスペイン、ローマへ向かいましたが、政宗の通商開設と宣教師派遣の要望はスペイン政府に受け入れられず、1620年に帰国しました。さらに、悲運の常長を待ち受けていたのは徳川幕府のキリシタン禁止令で、スペインにてキリシタンとなった常長は不遇のままに生涯を終えなければなりませんでした。日本出発がもう少し早かったなら、太平洋・大西洋を超え、異国の文化を持ち帰った常長は、国民的英雄であったはずです。高級ホテルが立ち並ぶオルニートス・ビーチの浜辺には、1972年に仙台市から寄贈された支倉常長記念碑が立っています。
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