地球が見える 2008年
歴史とともに歩み続ける永遠の都:ローマ
ローマ市内を縦に流れているのは、テヴェレ川です。伝説によれば紀元前753年にテヴェレ川を流れていた双子の兄弟ロムルスとレムスを牝狼が助けて乳を与え、命を救ったとされています。ロムルスはこの街の最初の王となり、彼の名から街は「ローマ」と呼ばれるようになりました。 アウレリアヌス帝(214−275)が蛮族の攻撃からローマを守るために270年から273年の間に建設したローマを取り囲む城壁(高さ13m、厚さ3.5m)を赤い線で示しました。ほとんどのローマの遺跡はこの城壁とテヴェレ川に囲まれた中にあります。緑の線で示したのは、ローマに通じていた全ての道の中でも、「女王の道」と呼ばれ、ローマ帝国の最重要街道であるアッピア(旧)街道です。今もローマ帝国時代の馬車や戦車の轍(わだち)の跡が残っています。 バチカン市国内の南東にはイタリア・バロック様式の代表的な建築物であるサン・ピエトロ大聖堂があります。サン・ピエトロとはイタリア語で「聖ペトロ」の意味で、64年に皇帝ネロ(37-68)の迫害により殉教した使徒ペトロの墓の上に建築されたと言われています。コンスタンティヌス帝(272−337)の命で324年に建築を開始し、この時建てられた聖堂(旧サン・ピエトロ聖堂)は15世紀末まで存在しました。新聖堂は1502年に建築が始まり、ラファエロ・サンティやミケランジェロが主任建築家となり1626年に完成し、現在に至っています。 大聖堂の総面積は、約22,000m2で、6万人以上収容可能と言われています。ミケランジェロが設計したと言われる大円蓋(クーポラ)は巨大で、高さが132.5m、直径が42mもあります。
パラティーノの丘とカピトリーノの丘に挟まれた場所に、「フォロ・ロマーノ」があります。この地は、もとは湿地帯でしたが、紀元前6世紀に行われたクロアーカ・マクシモ(大下水溝)によって、共和制ローマの政治、経済、宗教の中心地フォロ(公共広場)として発展していきました。紀元前1世紀のカエサル(BC100-BC44)とアウグストゥス(BC63-14)の時代にはその繁栄は頂点を迎え、現在残っている主な遺跡はこの時期に建てられたものが大部分です。しかし帝政期にはいるとその役割に陰りが見え始め、283年の大火や5世紀のゲルマン人の侵入などにより荒廃して行きました。 パラティーノの丘にあるコロッセウムは、80年にティトゥス帝(39-81)が完成し、周囲527メートル、高さ48.5メートル、5万人を収容することができたとされ、剣闘士たちによる血なまぐさい格闘が行われました。コロッセウムの観客席は身分によって分けられており、一階席は元老院議員、二階席は騎士、その上が市民、最上階は市民権を持たない人達のものでした。これは、人々に身分制度を意識させて帝国の秩序を保つ、皇帝の巧みな統治術です。5世紀前半にホノリウス帝(384-423)が剣闘士達の戦いを中止するまで闘技場として使用されました。 アヴェンティーノの丘とパラティーノの丘の間には、「チルコ・マッシモ」がありました。紀元前7世紀頃に建造され、その後カエサルの大改修により30万人以上も収容できた大競技場です。 チルコ・マッシモで最も有名なイベントは、映画『ベンハー』でもおなじみの戦車レースで、今でも競技場の面影は残っています。このチルコ・マッシモのすぐ北西には真実の口で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があります。 エスクイリーノの丘には、64年のローマの大火災で宮殿を失った皇帝ネロが建てた大宮殿ドムス・アウレア(黄金宮殿)の一部が残っており公開されています。 チェリオの丘を下り、徒歩10分ほどの道のりにあるカラカラ浴場は、カラカラ帝(186-217)の命により217年に完成し、以後300年に渡って使用されました。敷地は330m四方におよび同時に1,600人が入浴できました。また敷地内には、ラテン語やギリシャ語の図書館があり、単なる風呂場ではなく、ローマ人の社交場、娯楽施設として機能していました。 クイリナーレの丘には古代には美しい庭園を持つ有力者たちの館が建ち並んでいましたが、20世紀半ばからはイタリアの行政中枢である大統領官邸(クイリナーレ宮)が置かれています。 ヴィミナーレの丘は現在ヴィミナーレ広場になっており、内務省のビルが建っています。 現在のローマは、街の至る所に遺跡が残っているのではなく、遺跡の中に街が存在しているのです。ローマはそんな遺跡の中に息づき、今も共存し続ける街であると言えそうです。
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