地球が見える 2008年
ブラジル移民100年の歴史を伝えるサンパウロ
サンパウロの大動脈チエテ川は、以前は汚染がひどく、汚染ガスが河川内に充満するなど様々な公害を巻き起こし「死の川」と呼ばれていましたが、住民の力によって、徐々に浄化されてきました。日本の政府開発援助(ODA)もこの浄化プログラムに協力しています。 画像下部には大西洋に面した海岸線とサントス湾が見えます。サントス湾には、かつてはコーヒーの積出港として栄え、現在は大豆などの積出しを行っているサントス港があります。サントス港からサンパウロ市までは約60km離れており、その間を結ぶ高速道路が森林の中に灰色の線となって見えています。 サントス湾の西側の緑なす台地と、40kmを越えるまっすぐな海岸線に挟まれた細長い土地は、水際から山に向かって整然と区画整理された住宅やリゾートエリアとなっています。この海岸線から標高約800mのサンパウロ市にいたる地域は自然保護地域に指定され、手付かずの森林や草地が残されています。
画像下部にはブラジルで離着陸する便数の最も多いコンゴニャス国際空港が見えていますが、滑走路が短いため、現在は主としてリオ・デ・ジャネイロやブラジリアなどの間のシャトル便が運航する国内線用として用いられています。チエテ川の北に見える空港はブラジルで5番目に便数の多いキャンポ・デ・マルタ空港です。図1に示したグアルーリョス国際空港は2番目に便数の多い空港です。 画像中央部に日本からの移住者が多く住みついた日本人街、リベルダージ地区があります。現在は韓国、中国からの移住民が増え東洋人街と呼ばれています。日系人が経営するホテルや日本食レストラン、日本語書籍を扱う書店や日本風の土産物店などが立ち並び活況を呈しています。地区の中心は、地下鉄リベルダージ駅の上にあるリベルダージ広場で、毎週日曜日には、東洋市が行われています。また、大阪橋という陸橋と大きな赤い鳥居があることでも有名です。 リベルダージ地区の南西に緑の三角形に見えるのは、1945年にサンパウロ市政400年を記念して造られたサンパウロ市内で一番大きな公園、イビラプエラ公園です。サンパウロ市民が良く訪れる公園の一つで、市内の緑地エリアとして、余暇を過ごす場所として利用されています。ジョギング・コース、サイクリング・ロード、マルチメディア噴水、現代美術館、日本館、公会堂などもあります。 イビラプエラ公園の東約5kmのところにパウリスタ博物館が見えます。ブラジルの独立を記念して1890年に建造されたもので、1908年にフランスのベルサイユ宮殿を模して庭園が作られました。 イビラプエラ公園の北約2kmのところに見える四角形のトリアノン公園に隣接して、1969年に4本の柱で支えられた高床式の建造物、サンパウロ美術館(MASP)があります。中世から現代に至る各時代の西洋美術の名品が数多く収蔵されています。トリアノン公園とサンパウロ美術館の間にある大通りは、パウリスタ大通りです。サンパウロがコーヒー園として栄えていた時代コーヒー園農場主の大邸宅があったところでサンパウロ発祥の地です。現在はサンパウロ随一のビジネス街となっています。 ピニェイロス川西岸に目を引く白い楕円形は競馬場です。その北西に広大な敷地のサンパウロ州立総合大学(USP)が見えます。ここは、幾つもの学部が市内各地に散在する状態を改善するため、1934年、既存の単科大学を集めて創立され、60年代始めに、面積500万平方メートルの大学キャンパス建設となったもので、その規模、近代的設備から名実ともにブラジルにおける学問の殿堂となっています。 今年、平成20年(2008年)は日本人がブラジルに移住を始めてから100周年にあたる「日本ブラジル交流年(日伯交流年)」です。明治41年(1908年)4月28日、第一回日本人移住者781名と自由渡航者10名を乗せた笠戸丸が神戸港を出航、6月18日にサントス港に到着し、列車でそのままサンパウロ市内の移民収容所(図2中央、現在は移民博物館)へ向かいました。その後、雇用農としてサンパウロ州各地のコーヒー園へと散って行きました。最後の移民船が出港した昭和46年(1971年)までに約25万人が海を渡ったといわれています。 現在、ブラジル国内に住む日系ブラジル人は約150万人で、その内サンパウロ州の日系ブラジル人は約100万人です。日本以外では最大の日系人社会を構成しています。
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