地球が見える 2007年
港町神戸と震災からの復興
六甲山麓の有馬温泉は日本三古湯の一つとして有名で、天下を統一した豊臣秀吉が有馬温泉をこよなく愛し、何度も訪れたことはよく知られています。海岸線は埠頭や埋立地が多く、その中でも際立っているのがポートアイランドと六甲アイランドです。 ポートアイランドは昭和56年(1981年)に完成(第1期)した人工島で、神戸大橋及び港島トンネルによって神戸中心部と結ばれています。市民の健康を預かる神戸市民病院も建設され、都市機能を一通り備えています。また、神戸ポートアイランド博覧会「ポートピア'81」が開催された場所でもあります。新交通ポートアイランド線で平成18年(2006年)に開港した神戸空港とつながっています。 六甲アイランドも人工島で、島全体が「向洋町」というひとつの町です。埋め立ては平成4年度(1992年度)に終了しました。1988年 3月に最初の住宅街が完成して入居が始まり、都市機能の整備が現在も続けられています。また、六甲アイライドの沖合では、廃棄物の最終処分場の整備のため、平成10年度(1998年度)から六甲アイランド南の埋め立てが行われています。 神戸港は古くから天然の良港であり、「大輪田の泊」(おおわだのとまり)と呼ばれ、中国大陸や朝鮮半島の港と交流していました。現在のような国際港、国際都市となる基礎を築いたのは平氏の全盛期を築いた平清盛(1118年〜1181年)といわれています。清盛が修築した大輪田の泊は、現在は埋め立てられていますが、図1の緑色の実線で示すあたりでした。入江は、海中に突き出た和田の岬で西風を防がれ、和田岬を回ってきた船が入り込むのに容易な良港でしたが、東北側の堤防が、旧湊川の氾濫や風波でたびたび決壊していました。清盛は、ここに強固な人工の島を築造して港の防波としたのです。清盛が築いた島は経ケ島といわれ、現在の図1の矢印辺りと推定されます。こうして整備された大輪田の泊は、平安時代(794年〜1192年)は宋と、室町時代(1336年〜1573年)は明との貿易で、国際港としての役割を果たすことになります。 源平の合戦以後、戦乱により神戸の町は荒廃し、海上貿易の中心を大阪の堺に譲ることになります。江戸時代(1603年〜1868年)になると「兵庫の津」と呼ばれ、鎖国政策のために外国貿易は途絶えますが、1672年に西廻り航路(日本海沿岸—関門海峡—大阪—紀伊半島—江戸)が開かれて以来、神戸は天下の台所・大阪の外港としてその地位を築き、大阪や江戸を結ぶ海上輸送の要衝を担うことになりました。そして、ペリー来航(1853年7月8日)後、慶応3年(1868年)に神戸港は開港しました。 その後、阪神大水害、太平洋戦争等の苦難を乗り越えて、昭和16年(1941年)には100万人の人口を擁する都市へと発展しました。
特に神戸市長田区においては火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されています。このため、近隣の建物に次々と延焼し、約6,000棟を越す建物が焼失しました。図2の楕円で囲まれた部分が焼失した地域です。図2は震災から丸12年後の家屋の再建の状況を示していますが、まだ空き地が残っており、元通りの復旧には至っていないことが分ります。
図4は今年初め(左)と震災直後(右)の画像を比較したもので、震災直後の画像で白くなっている部分が液状化現象発生場所であると識別されます。道路・鉄道の復旧には、全線開通までに約3年を、主な港湾施設については約2年を要しました。 平成18年(2006年)には神戸空港が開港し、海・空・陸の総合交通体系が確立され、平清盛の進取の気風を受け継いだ神戸は、阪神・淡路大震災の大痛手をほぼ自力で乗り越え、現在も我が国有数の魅力あふれる都市として発展し続けています。
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