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地球が見える 2005年

地峡を越える、船の近道:パナマ運河

図1 JERS-1/SARが捉えたパナマ主要部
図1は、地球資源衛星1号(ふよう1号)に搭載された合成開口レーダ(SAR)が捉えたパナマ共和国の主要部です。上の黒い部分は大西洋につながるカリブ海、右下の黒い部分は太平洋の一部であるパナマ湾です。パナマの東側は南アメリカのコロンビアに接しており、西側はコスタリカに接して、さらに北アメリカ大陸につながっています。パナマ運河は、北アメリカと南アメリカを結ぶ地峡の最も幅の狭いところを開削して、1914年に開通しました。
この画像は、SARから送信された電波が地表面で反射されてSARに戻ってくる電波の強さを表しています。このため、電波がほとんど戻ってこない水面は黒く、電波をよく反射する都市部や人工構造物は明るく、森林は中間の灰色に見えています。パナマを含む中部アメリカは高温多湿な熱帯気候帯に属するので、雲がかかっていることが多く、雲のあるなしにかかわらず地表を観測することのできるSARが威力を発揮します。

図2 パナマ運河
図2は図1のうち、パナマ運河周辺を拡大したものです。カリブ海側では、自由貿易港を擁するコロンの市街地、防波堤の内外の船舶及び、ガトゥン閘門(こうもん)が、太平洋側では首都パナマ・シティが明るく見えています。
パナマ運河はカリブ海側のコロンの近くから標高25.9 mの人造湖であるガトゥン湖と標高16.5 mのミラフローレス湖を経由して、太平洋側のパナマ・シティのところまで、全長78 km(目印のブイからブイまで)にわたって北西−南東方向に延びています。この間、カリブ海側のガトゥン閘門、太平洋側のペドロ・ミゲル閘門とミラフローレス閘門の3つの閘門が設けられています。これは、パナマ運河の太平洋側の平均水位がカリブ海側より24 cm高く、また太平洋側では±3.2 m以上、大西洋側で60 cmの潮位の変動があり、さらに上記の2つの湖を経由するので、途中の水位の差を調整するためで、海面式のスエズ運河と大きく異なっています。
ガトゥン湖はチャグレス川をガトゥンダムで堰き止めて作られた人造湖です。図2中央右のアラフエラ湖(マッデン湖)もチャグレス川を上流のマッデンダムで堰き止めて作られた人造湖で、水位の調節のための淡水を供給します。1隻の大型船がパナマ運河を通過する際に必要な水の量は約20万トンで、ガトゥン湖から閘門を経て海に排出されます。ペドロ・ミゲル閘門とミラフローレス閘門の間のミラフローレス湖も人造湖です。
パナマ運河の最も狭いところはクレブラ(ゲイラード)・カット(カットは切り通し、掘り割りの意)で、ペドロ・ミゲル閘門の北の端から、拡幅されたチャグレ川と合流するまでおよそ13.7 kmにわたって延びており、分水嶺の岩を切り開いて曲がっています。
コロンの北東約30 kmのところにあるポルトベロとコロンの南西約10 kmのチャグレス川の河口にあるサン・ロレンソは、「パナマのカリブ海沿岸の要塞群:ポルトベロとサン・ロレンソ」として1980年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
右下にはパナマ・シティの国際空港であるトクメン国際空港が黒く見えています。

図3 コロン周辺の拡大図
図3中央の明るい部分はコロンの市街地です。リモン湾の内外に停泊中と思われる船舶が明るく見えています。
左下の非常に明るい部分は、ガトゥン閘門です。これは閘室の内側の2面の壁と水面が直方体の角(コーナー・キューブ)のようになって、SARの電波を来た方向にそっくり反射したためと考えられます。
ガトゥン閘門のすぐ西には、レセップス卿が主導したフランス運河の跡やチャグレス川、ガトゥンダムが見えています。ガトゥン閘門のすぐ東には第2次世界大戦中に米国が行った工事の跡が見えています。
図下では、ガトゥン湖を横切るパナマ運河鉄道が見えています。この鉄道は、コロンとパナマ・シティを結ぶ横断鉄道として1855年に開通し、1997年に一旦廃止されましたが、2001年に再開されました。

図4 パナマ・シティ周辺の拡大図
図中央の明るい部分はパナマ・シティで、その西から北西方向にパナマ運河が黒く延びています。左上のペドロ・ミゲル閘門とミラフローレス閘門のところをよく見ると、2列に並んだ閘室の間仕切りが見えています。2組の閘門に挟まれた閘室の大きさは、幅33.53 m、長さ304.8 mで、この閘室に収まる船の最大の大きさは幅32.3 m、長さ294.1 mで、深さ12 mの熱帯の真水に浮かなければなりません。この大きさはパナマックスと呼ばれ、5万トンから8万トン級に相当します。
ミラフローレス閘門の南側、本来の運河の西側に、本来の運河と並行した細長い溝があるのが見えます。これは、第3閘門開削と呼ばれ、第2次世界大戦の勃発とともに工事が中断されました。
パナマ運河の河口にはラス・アメリカス橋がかかっていて、明るく見えています。その右下には、3つの島と本土を結ぶコーズウェイ兼防波堤があり、その先に停泊中と思われる船舶が明るく点在しています。
パナマ・シティ中心部の西には国内線用のアルブロック空港が黒く見えています。中心部北東にあるパナマ・ビエホとすぐ南にある歴史地区(カスコ・ビエホ)は「パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区」として1997年、世界文化遺産に登録されました。

1880年にパナマ運河の建設に着手したのは、1869年にスエズ運河建設に成功したフランスのレセップス卿でしたが、技術的な困難、マラリアや黄熱病による労働者の喪失、工事が予想外に長引いたための資金面での行き詰まりのため、1989年に工事は中断してしまいました。その後、米国がそれを引き継いで1904年工事を再開し、1914年に開通しました。また、米国は1904年以来、運河地帯をパナマから租借し、パナマ運河の運営も行って来ましたが、1999年12月31日をもってパナマに返還しました。その後のパナマ運河の運営はパナマ運河庁によって行われています。



参照サイト:
パナマ運河庁(英語)
パナマのカリブ海沿岸の要塞群:ポルトベロとサン・ロレンソ(ユネスコ世界遺産(英語))
パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区(ユネスコ世界遺産(英語))

参照文献:
世界大地図館、小学館、1996

観測画像について:
(図1〜4)
観測衛星: 地球資源衛星1号(JERS-1)
観測センサ: 合成開口レーダ(SAR)
観測日時: 1996年7〜8月(図1及び2)、
1994年3月22日及び23日(図3及び4)
観測周波数: 1,275 MHz (Lバンド)
地上分解能: 18 m
地図投影法: UTM

関連サイト:
沙漠を貫く、船の近道:スエズ運河
JERS-1 SAR全球森林マッピング (GRFM/GBFM) プログラム

付録:
近道効果:
ニューヨーク・サンフランシスコ間の航路の場合、南アメリカ南端のホーン岬とドレーク海峡を経由すると11,300カイリ(21,000 km)ですが、パナマ運河経由だと4,600カイリ(8,500km)と60%短縮できます。航行日数でいうと20ノットで航行する場合、ホーン岬経由だと 24日かかりますが、パナマ運河経由だと10日で済みます。なお、1カイリ=1,852m=子午線1分の長さ、1ノット=1カイリ/時です。

拡張工事:
パナマ運河の航路の中で幅の狭いクレブラ・カットがボトル・ネックとなり、大型船舶は片側交互通行を余儀なくされていましたが、2001年11月までに拡幅工事が完了し、その後さらに航行支援の近代化が行われて、1日24時間、パナマックス船舶が安全に双方向に通航できるようになりました。通過時間は待ち時間を含めて平均約20時間で、スエズ運河よりも5時間長く、これは3カ所の閘門で6回の水位の調整を行い、各閘室への出入りの際にタグボートや電気機関車のお世話になるためです。やはり、年中無休で運用されています。通航船舶のうち、パナマックス船舶が現在は1/4ですが、2010年には1/3に増えると予測されているので、現在のパナマックス船舶の2倍以上の15万トン級の船舶が通航可能な閘門を整備する計画が検討されています。

通航量:
パナマ運河を通過する船舶は年間13,000〜14,000隻でこれは世界の海運の5%に当たります。このうち39%はコンテナ船で、次いで乾燥原料船20%、自動車運搬船15%、石油タンカー9%、冷凍貨物船7%など(2004年の総トン数ベース)となっており、やはりコンテナ船の比率が多いですが、それ以外はスエズ運河と異なってバラエティに富んでいます。また、貿易経路別に見ると、米国東海岸−アジアが35%、世界一周が9%、ヨーロッパ−南米西海岸が8%、米国東海岸−南米西海岸が7%、ヨーロッパ−アジアが5%などとなっています。
パナマ運河庁によると2004年の通航料収入は過去最高の7億5800万ドル(834億円)となり、パナマにとって重要な収入源になっています。

交通の要衝、パナマ:
16世紀初め、スペインの探検家たちはパナマを訪れ、1513年にはバルボアが太平洋側に到達して、パナマが大西洋と太平洋を隔てる地峡の最も狭いところであることがわかりました。この時、バルボアは穏やかな海を見て「太平洋」と名付けました。1530年代のインカ征服はパナマを拠点として行われ、ペルーや近隣の植民地からスペインへの銀などの物資の輸送は、海路で太平洋側のパナマ・シティへ、陸路でカリブ海側のポルトベロへ、そして海路でスペインへというように行われました。
また、19世紀半ばに西海岸でゴールドラッシュに沸いた米国にとって、東海岸と西海岸を行き来するには、ロッキー山脈を駅馬車で越えるよりも、船でパナマへ行き、1855年に開通したパナマ横断鉄道で反対側へ行き、船で米国本土へ行くのが効率的でした。この状況は1869年のアメリカ大陸横断鉄道の開通まで続き、その後の米国によるパナマ運河に対する非常に強い関心につながっていきます。

パナマ運河周辺の世界遺産:
「パナマのカリブ海沿岸の要塞群:ポルトベロとサン・ロレンソ」の要塞群は、大西洋横断の貿易を保護するためにスペイン君主によって構築された防衛システムの一部を成すもので、17〜18世紀の軍事施設の壮大な事例であると評価されました。
「パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区」のパナマ・ビエホは1519年、征服者ペドラリアス・ダヴィラによって建設された、アメリカ大陸の太平洋沿岸における最も古いヨーロッパの居留地です。街は碁盤の目のように整然としており、計画的な街作りの概念がヨーロッパからもたらされたことを示しています。17世紀の中頃にその機能を取って代わった「新しい町」(現在の「歴史地区」)もまた当初の街路計画と、そのアーキテクチャ、そしてスペイン風、フランス風、アーリーアメリカンの3つの異なった様式の混在した状態を保存してきました。サロン・ボリバルでは、1826年にエル・リベルタドールが多国籍の大陸議会を設立しようとしましたが、失敗に終わりました。

青山士(あおやま たかし):
青山士は大学卒業後、1904年から1911年まで、唯一の日本人技術者として、ガトゥン閘門の設計を含むパナマ運河の建設に従事しました。日本への帰国後は、その技術を生かして、1915年には荒川の岩淵水門の設計を行い、1918年以降は荒川改修及び荒川放水路開削工事に携わりました。

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