地球が見える 2009年
城下町から政令指定都市へ、岡山市
岡山平野の南部一帯は天正10年(1582年)当時、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土との間に20余りの島々を点在させた、「吉備の穴海」と呼ばれる美しい浅海でしたが、吉井川、旭川、高梁川(たかはしがわ)*の強力な沖積作用で島々の間には干潟が発達し、干拓を可能にする条件に恵まれていました。元和4年(1681年)に、現在の倉敷市倉敷駅の南に位置する西阿知新田・東阿知新田の開発により児島は陸続きとなり、その後も、旭川の沖積作用を利用した干拓による新田開発が盛んに行われ、江戸時代に約68km2もの土地が造成されました。明治時代になって旧士族たちに託された事業として、昭和21年(1946年)からは国営事業としての干拓が進められて、昭和38年(1963年)の完成までに約55km2の土地が造成されました。(* 高梁川は図1の範囲外の西側に位置しています) 岡山県の県庁所在地の岡山市中心部は旭川河口から8kmほど遡ったところにあります。岡山市北部の山間に岡山空港が見えています。画像下部の瀬戸内海には、これまでに2度の映画化と6度のテレビドラマ化がなされた、壺井栄の小説「二十四の瞳」の舞台となった香川県の小豆島が見えています。
市街地や住宅地は灰色に見え、農耕地は薄茶色や黄緑色で整然と並び、パッチワークのように見えています。画像が取得された時期、児島湖西側と児島湾北側の水田は収穫後のため、薄茶色に見えています。やや黒く見えるところは水分をより多く含んでいるためと思われます。旭川の小さな蛇行を挟んで岡山城と岡山後楽園があり、その西側が岡山市街中心部です。岡山後楽園は茨城県水戸市の偕楽園、石川県金沢市の兼六園と並ぶ大名庭園で日本三名園のひとつです。 画像の左側、山陽自動車道と山陽新幹線の間、岡山市西の郊外から総社市へと続く旧山陽道に沿った吉備路一帯は古代「吉備国」と呼ばれ、当時の大和や北九州の文化圏にも劣らぬ一大勢力を誇っていました。古墳群や史跡・文化遺産がいたるところに散在しており、 「桃太郎」のルーツとなる伝説が多く語り継がれるのもこのあたりです。 奇祭として知られる西大寺会陽(さいだいじえよう)は、画像の右端の吉井川沿いにある西大寺観音院境内で、毎年2月の第3土曜日の夜に行われています。
岡山駅から桃太郎大通りをまっすぐ東に抜け、旭川沿いの道を行くと、三層六重の岡山城天守閣が見えてきます。岡山城は慶長2年(1597年)、豊臣五大老の一人、宇喜多秀家が8年の歳月をかけて築城したものです。旭川の流れを変え、本丸の北面から東面を巡らせて堀の役割を持たせました。宇喜多秀家が関ヶ原の戦い(1600年)で没落すると、小早川秀秋が入城するも翌年には亡くなり小早川家は断絶、慶長8年(1603年)には池田忠継が入り、岡山は池田氏の城下町となりました。岡山城の西側と南側には鍵型の本丸内堀が黒く見えていますが、他にも内堀、中堀、外堀がありました。二十日堀とも呼ばれる、かつての外堀は小早川秀秋が築いたもので、柳川筋がその名残です。中堀は天満屋西側の街路に、二の丸外周の内堀は岡山シンフォニーホール南のオランダ東通にその跡を留めています。また、城下町の外堀内の街路のほとんどが今も道路として残っており、岡山市の原型は城下町建設時に完成していたことが窺えます。 後楽園は貞享4年(1687年)池田氏第4代綱政公によって造成が命ぜられ、元禄13年(1700年)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられたものの、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。池田氏を藩主とした城下町岡山は、その後も順調に発展し、江戸時代末期には十指に入る経済力を持つ城下町となりました。 岡山駅の北側約2kmのところには岡山県総合グラウンドがあり、野球場、陸上競技場(桃太郎スタジアム)、体育館(桃太郎アリーナ)及び武道館などがあります。その北には岡山大学津島キャンパスがあります。岡山大学にはもう1つキャンパスがあり、この画像の南側に位置する鹿田キャンパスです。岡山駅から南に下がる市役所筋と、新京橋を経て西にいたる国道2号線の交差点南側に岡山市役所があります。 岡山市は人口約70万人の中核市で、平成21年4月1日に全国で18番目、中国・四国地方では広島市に次いで2番目の政令指定都市に移行します。
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