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地球が見える 2008年

歴史とともに歩み続ける永遠の都:ローマ

図1 イタリア中部地区
図1は2007年7月に捉えたイタリア中部地区の画像です。ローマ市は画像中央の灰色の部分で、ティレニア海から約27km離れ、アペニン山脈、ブラチアーノ湖そしてアルバーノ湖の間に位置しています。国際線が数多く発着するフィウミチーノ空港(別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)はティレニア海のすぐ近くにあります。日本からの飛行機が到着するのはこの空港で、ローマ市内までは約20kmあります。

図2 ローマ市周辺
図2はローマ市周辺の画像です。イタリアの首都であるローマ市は、古代ローマ帝国の時代から、ルネッサンス、バロック、現代と人類の歩みをそのまま今に伝える「永遠の都」です。市内には一つの独立した国でもあるキリスト教の総本山バチカン市国が存在します。市国全体が1984年に国際連合教育科学文化機関 (UNESCO)の世界文化遺産として登録されました。また、同様にローマ遺跡の大半はローマ歴史地区として、1980年に世界文化遺産に登録されました。(1990年には一部の遺跡が追加登録されています)。また、ローマ市は現在のイタリアの政治・経済・文化の中心を担っており、イタリアの交通の要衝としても大きな役割を果たしています。国内外からの列車が頻繁に発着するローマ最大の駅テルミニ駅は、ガラスと大理石を用いた近代的な建物で、20世紀ローマの代表的建築物の一つです。
ローマ市内を縦に流れているのは、テヴェレ川です。伝説によれば紀元前753年にテヴェレ川を流れていた双子の兄弟ロムルスとレムスを牝狼が助けて乳を与え、命を救ったとされています。ロムルスはこの街の最初の王となり、彼の名から街は「ローマ」と呼ばれるようになりました。
アウレリアヌス帝(214−275)が蛮族の攻撃からローマを守るために270年から273年の間に建設したローマを取り囲む城壁(高さ13m、厚さ3.5m)を赤い線で示しました。ほとんどのローマの遺跡はこの城壁とテヴェレ川に囲まれた中にあります。緑の線で示したのは、ローマに通じていた全ての道の中でも、「女王の道」と呼ばれ、ローマ帝国の最重要街道であるアッピア(旧)街道です。今もローマ帝国時代の馬車や戦車の轍(わだち)の跡が残っています。
バチカン市国内の南東にはイタリア・バロック様式の代表的な建築物であるサン・ピエトロ大聖堂があります。サン・ピエトロとはイタリア語で「聖ペトロ」の意味で、64年に皇帝ネロ(37-68)の迫害により殉教した使徒ペトロの墓の上に建築されたと言われています。コンスタンティヌス帝(272−337)の命で324年に建築を開始し、この時建てられた聖堂(旧サン・ピエトロ聖堂)は15世紀末まで存在しました。新聖堂は1502年に建築が始まり、ラファエロ・サンティやミケランジェロが主任建築家となり1626年に完成し、現在に至っています。
大聖堂の総面積は、約22,000m2で、6万人以上収容可能と言われています。ミケランジェロが設計したと言われる大円蓋(クーポラ)は巨大で、高さが132.5m、直径が42mもあります。

図3 7つの丘とその周辺
(Google Earthで見るローマ (kmz形式、3.59MB、低解像度版))
ローマには数え切れないほどの有名な遺跡が存在しますが、今回は、古代ローマが最初に築かれたと言われる7つの丘(図3の黄色の矢印で示す箇所)とその周辺にある遺跡や現代建築を取り上げます。
パラティーノの丘とカピトリーノの丘に挟まれた場所に、「フォロ・ロマーノ」があります。この地は、もとは湿地帯でしたが、紀元前6世紀に行われたクロアーカ・マクシモ(大下水溝)によって、共和制ローマの政治、経済、宗教の中心地フォロ(公共広場)として発展していきました。紀元前1世紀のカエサル(BC100-BC44)とアウグストゥス(BC63-14)の時代にはその繁栄は頂点を迎え、現在残っている主な遺跡はこの時期に建てられたものが大部分です。しかし帝政期にはいるとその役割に陰りが見え始め、283年の大火や5世紀のゲルマン人の侵入などにより荒廃して行きました。
パラティーノの丘にあるコロッセウムは、80年にティトゥス帝(39-81)が完成し、周囲527メートル、高さ48.5メートル、5万人を収容することができたとされ、剣闘士たちによる血なまぐさい格闘が行われました。コロッセウムの観客席は身分によって分けられており、一階席は元老院議員、二階席は騎士、その上が市民、最上階は市民権を持たない人達のものでした。これは、人々に身分制度を意識させて帝国の秩序を保つ、皇帝の巧みな統治術です。5世紀前半にホノリウス帝(384-423)が剣闘士達の戦いを中止するまで闘技場として使用されました。
アヴェンティーノの丘とパラティーノの丘の間には、「チルコ・マッシモ」がありました。紀元前7世紀頃に建造され、その後カエサルの大改修により30万人以上も収容できた大競技場です。 チルコ・マッシモで最も有名なイベントは、映画『ベンハー』でもおなじみの戦車レースで、今でも競技場の面影は残っています。このチルコ・マッシモのすぐ北西には真実の口で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があります。

エスクイリーノの丘には、64年のローマの大火災で宮殿を失った皇帝ネロが建てた大宮殿ドムス・アウレア(黄金宮殿)の一部が残っており公開されています。
チェリオの丘を下り、徒歩10分ほどの道のりにあるカラカラ浴場は、カラカラ帝(186-217)の命により217年に完成し、以後300年に渡って使用されました。敷地は330m四方におよび同時に1,600人が入浴できました。また敷地内には、ラテン語やギリシャ語の図書館があり、単なる風呂場ではなく、ローマ人の社交場、娯楽施設として機能していました。
クイリナーレの丘には古代には美しい庭園を持つ有力者たちの館が建ち並んでいましたが、20世紀半ばからはイタリアの行政中枢である大統領官邸(クイリナーレ宮)が置かれています。
ヴィミナーレの丘は現在ヴィミナーレ広場になっており、内務省のビルが建っています。
現在のローマは、街の至る所に遺跡が残っているのではなく、遺跡の中に街が存在しているのです。ローマはそんな遺跡の中に息づき、今も共存し続ける街であると言えそうです。



観測画像について:


(図1〜図3、図をクリックすると二段階で拡大します)
観測衛星: 陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)
観測センサ: 高性能可視近赤外放射計2型(AVNIR-2)(図1〜3)及び
パンクロマチック立体視センサ(PRISM)(図3)
観測日時: 2007年7月20日10時10分頃(世界標準時)(図1〜3)及び
2007年12月5日10時10分頃(世界標準時)(図3)
地上分解能: 2.5m (PRISM)、10m (AVNIR-2)
地図投影法: UTM(ユニバーサル横メルカトール)
AVNIR-2は、4つのバンドで地上を観測します。図1及び図2は、いずれも可視域のバンド3 (610 〜 690ナノメートル)、バンド2(520 〜 600ナノメートル)とバンド1 (420 〜500ナノメートル)を赤、緑、青に割り当てカラー合成しました。図は通常と異なって、緑にバンド2の値×90%とバンド4の値×10%の和を割り当てるという工夫をしたので、植生の分布が見やすくなっています。
PRISMは地表を520〜770ナノメートル(10億分の1メートル)の可視域から近赤外域の1バンドで観測する光学センサです。得られる画像は白黒画像です。前方、直下、後方の観測を同時に行いますが、ここでは直下視の画像を使っています。
AVNIR-2画像を「色相(Hue)」、「彩度(Saturation)」、「明度(Intensity)」に変換(HSI変換)し、明度をPRISM画像で置き換えて再合成することで見かけ上、地上分解能2.5mのカラー画像を作成することができます。 図3は、このように高分解能の白黒画像と低分解能のカラー画像を組み合わせて合成された高分解能のカラー画像、つまりパンシャープン画像です。この組合せでは、肉眼で見たのと同じような色合いとなり、次のように見えています。

緑色: 森林
明緑色: 草地、農地
灰色: 市街地、道路
赤っぽい茶色: 建物(レンガ)
青: 水域

関連サイト:
ALOS 解析研究ページ
ルネッサンスの花が咲き誇ったフィレンツェ
千年にわたり作り上げた水の都、ヴェネツィア
地球が見える 陸地・地形
本文ここまで。
画像:人工衛星の情報を掲載 サテライトナビゲーター
画像:衛星利用の情報を発信 衛星利用推進サイト
画像:衛星から見た地球のデータ集
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