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地球が見える 2005年

壁で分断された都市:ベルリン(その1)

ライニッケンドルフ区 ノイケルン区 マルツァーン区
*A-Cの枠内をクリックすると拡大図を見ることができます

図は日本の地球資源衛星1号に搭載された光学センサが1993年5月に捉えたドイツの首都ベルリンとその周辺です。ベルリンの周りはブランデンブルク州で、その州都は左下のポツダムです。ポツダムを通って左下から上に流れているのが、ハーフェル川です。一方、右下からベルリンの中心部を東から西に流れ、ハーフェル川に合流するのがシュプレー川です。濃い緑色は森林を、薄い緑色や薄い茶色は畑や草地を表しており、郊外に森林や畑、草地が広がっていることが分かります。
図にはベルリンの市境(黄色の線)とベルリンの壁の跡地(赤い線)が示されています。ベルリンの中心部には東西3 km、南北1 kmの広大な公園ティーアガルテンが鮮やかな緑色に見えています。旧西ベルリンには3つも空港があります。これは、第2次大戦後、米英仏の3国の占領地域であった旧西ベルリンがソ連の占領地域であった東ドイツに取り囲まれていたためです。シェーネフェルト空港は旧東ベルリン空港です。今後、シェーネフェルト空港は拡張されて2007年にベルリン・ブランデンブルク国際空港と改称され、これに伴ってテンペルホーフ空港とテーゲル空港は順次閉鎖される予定です。
フレームAにはベルリンの壁の跡と旧西ベルリンのライニッケンドルフ区が含まれています。高さ3m程のベルリンの壁は、すでにほとんど撤去されましたが、二重になっていて幅数十mの無人地帯が設けられていたため、衛星画像でもその跡が明瞭に分かる箇所があります。フレームBはベルリンの壁の跡と旧西ベルリンのノイケルン区が含まれています。ベルリンの壁を挟んで、旧西ベルリン側は住宅地、旧東ベルリン側は畑地や牧草地となっており、土地利用の違いが明瞭に読みとれます。旧西ベルリンを囲んでいたベルリンの壁の全長は155 km、そのうち東ベルリンとの境界に接していたのは46 kmに及び、1961年から1989年まで28年間にわたって旧西ベルリンを孤立させ、ベルリンを東西に分断しました。
また、フレームAとフレームBには集合住宅群も見えています。最高で31階建て(高さ90 m)で1960年代に建設されましたが、公共のスペースや、娯楽施設が少ないため住民の評判は良くありませんでした。一方、フレームCには旧東ドイツのマルツァーン区の10〜20階建ての、より大規模な集合住宅群が見えています。1970年代から1980年代にかけて建設されたこの住宅群も同様に評判の良いものではありませんでした。



参考文献
木戸衛一編著、「ベルリン 過去・現在・未来」、三一書房、1998


観測画像について:
(図及びフレームA〜C)
観測衛星: 地球資源衛星1号「ふよう1号」(JERS-1)
観測センサ: 可視近赤外放射計(VNIR)
観測日時: 1993年5月9日午前10時24分頃(世界標準時)
地上分解能: 18.3 m×24.2 m
地図投影法: UTM(ユニバーサル横メルカトール)
図及びフレームA〜Cでは近赤外域の0.76〜0.86µm、可視域の0.63〜0.69µm、 0.52〜0.60µmの各バンドに緑、赤、青色を割り当てているので、いずれも肉眼で見た色に近い色付けで植生をやや強調した合成画像です。雲は白く、市街地は茶色っぽく、森林は濃い緑色に、草地や畑は薄い緑色に、水面は黒く見えます。データのないところも黒く表現されています。

関連サイト:
世界遺産を取り巻く高層住宅群:サンクト・ペテルブルク
アインシュタインの「奇跡の年」の舞台:スイス、ベルン
発展を続ける天使の都:バンコク
霧のない晴れ上がった都、ロンドン

付録:
ベルリン封鎖と3つの空港:
1945年の第2次世界大戦の終結後、ドイツとベルリンが米英仏ソの連合軍によって分割統治されました。しかし、冷戦の進行と共に米英仏の3国とソ連とが次第に不仲になり、ベルリンのうち米英仏の3国の占領地域(西ベルリン)がソ連の占領地域(東ドイツ)に取り囲まれていたため、米英仏の3国がそれぞれの占領地域に空港を持つこととなりました。北側のテーゲル空港(工兵隊によりわずか49日間で建設されました)はフランスの占領地に、西側のガトウ空港は英国の占領地に、南側のテンペルホーフ空港は米国の占領地にありました。これらの空港は、1948年6月24日から1949年5月11日までのベルリン封鎖の際に西側からの物資の空輸に大活躍しました。この物資の空輸は9月30日まで続けられました。

ベルリンの壁:
東ドイツは1961年8月13日午前0時に突然、有刺鉄線の壁の建設を開始しました。1945年の第2次世界大戦の終結と当同時に始まった冷戦の中で、西ベルリンは東ドイツの中に取り残された西側の飛び地となっていました。このため、西ベルリンは東側の共産主義政権から逃れてくる亡命者の受け入れ地となっていました。しかし、共産主義国に必要な熟練した若い労働力の流出を避けるため、壁の建設に取りかかったのです。最初の有刺鉄線の壁は同日午後1時までに建設がほぼ終了しました。翌1962年6月には、最初の壁から東ドイツ側に数mないし数十mのところに並行する壁の建設が始まりました。二つの壁の間は無人地帯と呼ばれ、監視塔や監視道路が設置されました。1975年には高さ3.6mの鉄筋コンクリートの壁となりました。
ベルリンの壁には、鉄道駅も含めて、14カ所の検問所が設けられました。検問所は西ベルリン市民専用、外交官と外国人専用、東ドイツ領内を通過して西ドイツと西ベルリンを直結するアウトバーンの出入り口など何種類かありました。
壁の検問所での検問が行われなくなったのは1989年11月9日午後7時のことで、この時、壁はその意味を失いました。その後、壁の大部分は東ドイツによって撤去され、ポツダム広場近くの長さ80mの区画など3カ所だけ残されています。

本文ここまで。
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