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地球が見える 2005年

世界遺産を取り巻く高層住宅群:サンクト・ペテルブルク

郊外の集合住宅 サンクト・ペテルブルク中心部 サンクト・ペテルブルク近郊
図1 サンクト・ペテルブルク周辺
*A-Cの枠内をクリックすると拡大図を見ることができます

図1は日本の地球資源衛星1号に搭載された光学センサが1993年4月に捉えたロシア第二の大都市サンクト・ペテルブルクとその周辺です。左にフィンランド湾、右上にラドガ湖が見えていますが、まだ凍結している部分があります。陸域では、積雪もまだ残っています。郊外の黄緑色の部分は畑や草地ですが、他の都市と比べるとずいぶん少ないようです。中央の茶色っぽいところがサンクト・ペテルブルクです。市内を流れるのは、ラドガ湖から流れ出る唯一の川であるネヴァ川です。フィンランド湾に浮かんでいるのはコトリン島で、東側に堤防が延びて本土とつながっているように見えます。南側にも堤防が延びていますが、島の手前部分がまだつながっていません。この堤防は洪水対策用で、財政難と生態系への影響が懸念されることから1987年以降、建設工事は中断されたままとなっていましたが、間もなく再開され、2009年までに完成するということです。サンクト・ペテルブルクの建設は、スウェーデンの侵入を防ぐためにピョートル大帝が1703年にネヴァ川の野ウサギ島にペドロパヴロフスク要塞を、またコトリン島にクロンシュロット要塞を建設したことに始まります。

フレームB 郊外の集合住宅

サンクト・ペテルブルクは、1712年から1918年までロシア帝国の首都として、発展を続けてきました。しかし、鉄鋼、化学などの分野における工業化、商業化が進む中で、1914年までに人口は200万人を超え、住宅不足が深刻になってきました。このため第2次世界大戦後、ソヴィエト制度の下で、郊外に15〜20階建ての多数の集合住宅が計画的に建設されました。フレームAはサンクト・ペテルブルクの郊外に多くの高層の集合住宅があることを示しています。フレームBはフレームAの北部の拡大図で、このような集合住宅の陰が幾何学的な模様として見えています。サンクト・ペテルブルクの人口は1990年ころに500万人を超えて、ピークに達しましたが、その後、緩やかに減少しつつあり、2003年初めの人口は457万人になっています。

フレームC サンクト・ペテルブルク中心部

  旧ソヴィエト連邦崩壊直前の1990年に「レニングラードとその周辺の歴史地区」がユネスコの世界遺産のリストに登録されましたが、その後、「サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群」と改称されました。フレームC左のネヴァ川の中の川中島にペドロパヴロフスク要塞とペドロパヴロフスク聖堂があります。その対岸には、300万点に上る収蔵品を誇るエルミタージュ国立美術館が見えています。その左下には、100kg以上の金を使った丸屋根のイサク聖堂とマリインスキー劇場があります。マリインスキー劇場は近代バレエ確立の舞台となった有名なオペラ、バレエ劇場です。フレームCの中央を東西に走っているのが、サンクト・ペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー大通りです。その北側には芸術広場が、南側にはカザン聖堂があります。ネフスキー大通りが南東に曲がるところには、モスクワ駅があり、サンクト・ペテルブルクとモスクワを結ぶ列車が発着します。右上にはスモーリヌイ修道院が、右下にはアレクサンドル・ネフスキー大修道院が見えます。アレクサンドル・ネフスキー大修道院の近くの墓地には、小説家ドストエフスキー、作曲家チャイコフスキー、ムソルグスキーらが眠っています。なお、現地で撮った写真を写真1〜4に示します。

写真1 ネフスキー大通り 写真2 エルミタージュ国立美術館
写真3 イサク聖堂 写真4 芸術広場北のキリスト復活教会

近々、打上げ予定の陸域観測技術衛星(ALOS)には地上分解能10mの高性能可視近赤外放射計2型(AVNIR-2)が搭載されるので、より鮮明な最新の画像をお届けできる予定です。



参照サイト:
サンクト・ペテルブルク案内(在サンクトペテルブルク日本国総領事館)
サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群(英語版)(ユネスコ世界遺産センター)

観測画像について:
(図1及びフレームA〜C)
観測衛星: 地球資源衛星1号「ふよう1号」(JERS-1)
観測センサ: 可視近赤外放射計(VNIR)
観測日時: 1993年4月15日午前9時29分頃(世界標準時)
地上分解能: 18.3 m×24.2 m
地図投影法: UTM(ユニバーサル横メルカトール)
 図1及びフレームA〜Cでは近赤外域の0.76〜0.86μm、可視域の0.63〜0.69μm、 0.52〜0.60μmの各バンドに緑、赤、青色を割り当てているので、いずれも肉眼で見た色に近い色付けで植生をやや強調した合成画像です。雪や氷は白または薄紫色に、市街地は茶色っぽく、森林は濃い緑色に、草地や畑は薄い緑色に、水面は黒く見えます。データのないところも黒く表現されています。

関連サイト:
アインシュタインの「奇跡の年」の舞台:スイス、ベルン
発展を続ける天使の都:バンコク
霧のない晴れ上がった都、ロンドン

付録:
愛称:
サンクト・ペテルブルクは多くの愛称を持っています。ロシアの詩人プーシキンはサンクト・ペテルブルクを「ヨーロッパへの窓」と表現しました。また、ネヴァ側のデルタ地帯に建設されたサンクト・ペテルブルクには、多くの運河とみかげ石の護岸、400以上の橋があって、独特の雰囲気を醸し出しており、「北のヴェニス(ヴェネツィア)」と呼ばれます。さらに旧海軍省、冬の宮殿、マーブル宮殿、エルミタージュ国立美術館など、多くの宮殿があり、宮殿の都とも呼ばれます。これらの宮殿には、ピョートル大帝が理想としたバロック様式(オランダ風)のもの、女帝エカテリーナ二世が好んだ新古典様式のもの、両者を調和させたものといろいろあります。


名前の変遷:
当初はオランダ語風にサンクト・ピ−テルブルフと呼ばれましたが、1712年の遷都のころ以降はドイツ語風にサンクト・ペテルブルクと呼ばれました。1914年以降は、第一次世界大戦でドイツと戦争状態になったため、ロシア風にペトログラードと呼ばれました。1924年にレーニンが亡くなった後はレニングラード(レーニンの街)と呼ばれました。旧ソヴィエト連邦崩壊直前の1991年9月以降は住民投票によって再びサンクト・ペテルブルクと呼ばれています。


歴史に登場するサンクト・ペテルブルク:
サンクト・ペテルブルクは歴史上の重要な出来事の舞台として、明確かつ直接的に何回か登場します。1703〜1725年のサンクト・ペテルブルク建設は西欧世界にロシアの窓が開かれたことと皇帝の帝国が国際社会に登場したことを象徴するものでした。 1917年のロシア革命(10月革命)の口火を切った巡洋艦オーロラとボリシェヴィキ党本部が置かれたバレリーナのクシェシンスカヤの邸宅(現ロシア政治歴史博物館)は旧ソヴィエト連邦誕生の象徴となりました。

本文ここまで。
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