地球が見える 2005年
道東の冬景色:流氷と格子状防風林
図1を見ると、能取(のとろ)湖のところから知床岬にかけてのオホーツク海沿岸に流氷が接岸していることが分かります。流氷は国後島の北側の海岸にも接岸し、国後(くなしり)島と択捉(えとろふ)島の間(国後水道)から太平洋側に流れ出しています。図1から11日後の図2では、流氷は北海道のオホーツク海側から離れ、流氷の分布が少しまばらになりながら、東に移動したことが分かります。太平洋側に流れ出した氷の一部は、根室半島の南にまで達しているので、付近を航行する船舶は注意が必要です。 気象庁の報道発表「今冬のオホーツク海の海氷について(第3報)」によると、先月(2005年2月)の「オホーツク海の海氷面積は、月を通じて平年より小さく経過」しましたが、「2 月末現在、オホーツク海の南部(北緯50 度以南)の海氷域は平年並となっており、国後水道から太平洋へ規模の大きい流出がみられます」ということです。
図3の中央の根釧台地に見える格子縞は、「格子状防風林」と呼ばれるもので、2000年2月に宇宙飛行士の毛利衛さんがスペース・シャトル「エンデバー」に搭乗した際、ビデオカメラで見事に捉えられたことから、有名になり、2001年11月には「根釧台地の格子状防風林」として、北海道遺産に選定されました。この他、斜里岳の北側にも格子状防風林が見えています。防風林は、強く吹き付ける風を緩和させ、作物の損傷、地温の低下及び表土や肥料分の飛散を防ぐ効果がありますが、現在は、防風効果だけでなく、野生生物のすみかや移動の通路や二酸化炭素の吸収源としても評価されています。 2004年1月、わが国政府は「知床」を世界遺産に登録すべく推薦することを決定し、ユネスコ世界遺産センターへ推薦書を提出しました。その後、世界遺産委員会の諮問機関(IUCN)による書類審査及び現地調査が行われ、順調に行けば、本年(2005年)7月の第29回世界遺産委員会にて知床の登録が決定される予定です。環境省の報道発表資料によると、「知床」の主な特徴として次の点があげられています。 ・季節海氷域の特徴を反映した海洋生態系と連続した陸上生態系による複合生態系 ・海氷や紅葉など、四季の変化に富む原生的な自然景観 ・北方系と南方系の種が混在するなど、地理的位置と多様な自然環境を背景とした特異な生物多様性
関連サイト: 冬の風物詩:流氷到来 オホーツク海の海氷分布 北極・南極 付録: 江戸時代に北海道を歩いた地理学者、探検家たち: 伊能忠敬(1745〜1818)は今からおよそ200年前の1800年から1816年にかけて、北海道南部から屋久島に至る日本全国の測量を10回にわたって行い、実測による日本列島の地図を初めて作成しました。このうち、1800年の第一次測量では、奥州街道を経て蝦夷地(北海道)に入り、函館の西から道東の根釧台地に至る北海道の太平洋沿岸の測量を行いました。 この時、函館の近くで、間宮林蔵(1780〜1844)と出会って、師弟関係を結びました。林蔵はその後、二度の樺太(サハリン)探検で1809年に間宮海峡を発見するとともに、北海道の残りの沿海部(日本海側とオホーツク海側)と内陸部を含む蝦夷地全土を測量し、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分の完成に大きく貢献しました。 それから半世紀後、松浦武四郎(1818〜1888)は1845年から1858年にかけて、6回にわたって蝦夷地を探検し、アイヌ民族の協力を得つつ、「東西蝦夷山川地理取調図」など膨大な資料を残しました。1868年の明治維新後は、蝦夷地開拓御用掛、更に開拓判官となって北海道の多くの地名の選定を行い、特に「北海道」の名付け親となりました。「知床」の表記も武四郎によるもので、アイヌ語の「シリ・イトコ」(大地の果てるところの意)に基づいています。 参考資料: 奈良女子大学画像原文データベース「知床日誌」 格子状防風林の始まり: 1890年(明治23年)に北海道開拓使顧問のホーレス・ケプロン(1808-1885)が幅100間(180 m)の林帯を設置することを提唱し、それに基づいて、北海道議会が1896年(明治29年)に1800間(3,240 m)毎に防風林などに使用する土地を残すことを決めました。道東では、およそ80年前の大正末期から昭和初期にかけて(1926年ころ)防風林の造成が本格化し、現在では、「根釧台地の格子状防風林」の広さは中標津(なかしべつ)を中心に標津(しべつ)、別海(べっかい)、標茶(しべちゃ)の4町をまたぎ、15,700 haに及んでいます。 参考資料: 格子状防風林〜「大いなる緑の格子」GREAT GREEN GRID 中標津町 |