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地球が見える 2006年

バッハが活躍した街:ドイツ、ザクセン州ライプツィヒ

今回は、旧東ドイツ地区で唯一、ワールドカップサッカーの会場となったライプツィヒを「だいち」(ALOS)の最新画像で紹介します。
図1 ライプツィヒ周辺
図1は陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)の高性能可視近赤外放射計2型(AVNIR-2)が先月(2006年5月に)捉えたライプツィヒの周辺です。人口は約50万人で、ザクセン州の州都ドレスデンの約49万人をわずかに上回ります。図右上にエルベ川が見えており、北西方向に流れています。ライプツィヒは白エルスター川のほとりに位置し、図中央で青っぽい灰色に見えています。白エルスター川はハレでザーレ川に合流し、ザーレ川はエルベ川に合流します。図左にはハレの市街地が見えており、両市街地の中間にライプツィヒ・ハレ空港が見えています。図の大半は緑色や黄土色の畑地や牧草地で覆われています。深緑色は森林です。

図2 ライプツィヒの拡大図
図2はライプツィヒの拡大図です。図左上にライプツィヒ・ハレ空港が見えています。現在の滑走路は高速道路(アウトバーン)のすぐ北側にありますが、アウトバーンのすぐ南側では以前の滑走路が取り壊され、土砂がむき出しになって現在、工事中であることが分かります。空港のすぐ東側には2002年8月に稼働を始めたポルシェのライプツィヒ工場が見えています。そのさらに東側には新見本市会場があります。一方、図下にはベランティス遊園地が見えています。
これらの施設は、図中央のライプツィヒ市街地を取り囲むように延びているアウトバーンに沿って配置されています。図の上や下には、湖や貯水池がいくつか見えています。

図3 ライプツィヒ市街地
(Google Earthで見るライプツィヒ (kmz形式、2.09MB、低解像度版))
図3はライプツィヒ市街地の拡大図です。図中央には今回のワールドカップの会場となった白い輪の形のツェントラル・シュタデォンが見えています。そのすぐ西側には白エルスター川が一旦エルスター池となって北に流れています。図左には、ザーレ・エルスター運河が見えています。
ツェントラル・シュタデォンの東側には、ヨーロッパで最大の始発着駅の一つで、大きな長方形のライプツィヒ中央駅、300年以上の歴史を持ち、ドイツで二番目に古いオペラハウス、赤い屋根の新市庁舎、世界で最も古く変化に富んだ動物園の一つであるライプツィヒ動物園などが見えています。聖トーマス教会では、ヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1685〜1750年)が1723年から1750年までオルガン奏者兼合唱団の指揮者(カントール)を務め、今はそこに永眠しています。ゲヴァントハウス(元々は織物倉庫の意味)は世界最古の民間オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地です。
ゲヴァントハウスの西隣には、1409年に創設され、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832年)やフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844〜1900年)、森鴎外(1862〜1922年)が学んだライプツィヒ大学の主校舎があります。
図右下には、高さ91mで、ヨーロッパで最も高い記念碑である、諸国民の戦い記念碑が見えています。ここは、1813年10月16〜19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)でナポレオン・ボナパルト(1769〜1821年)指揮下のフランス軍をプロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデンの同盟国軍が包囲し、ナポレオンが敗戦を悟った場所で、その結果、ナポレオンによるドイツ支配は終わりました。この記念碑は、すべての戦死者を弔うため、100年後の1913年に建立(こんりゅう)されました。
図の右上と左下には、高層の集合住宅群を示す幾何学的な模様が見えています。



参照サイト:
ライプツィヒ市の観光サイト(英語)

観測画像について:
(図1〜図3)
観測衛星: 陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)
観測センサ: 高性能可視近赤外放射計2型(AVNIR-2)
観測日時: 2006年5月5日12時56分頃(世界標準時)
地上分解能 10 m
地図投影法: UTM(ユニバーサル横メルカトール)
AVNIR-2は、衛星進行直行方向に観測領域を変更するポインティング機能を持っていて、 4つのバンドで地上を観測します。このうち、バンド1 (420〜500ナノメートル)、バンド2 (520〜600ナノメートル)とバンド3 (610〜690ナノメートル)を青、緑、赤色に割り当てカラー合成しました。この組合せでは、肉眼で見たのと同じような色合いとなり、次のように見えています。

深緑色: 森林
緑色や黄土色: 草地、畑地
青っぽい灰色: 市街地、道路
赤、青、白など: 建物の屋根
濃紺: 水面(湖、池、川)

関連サイト:
ドイツ、バイエルン州の州都:ミュンヘン
衛星画像で見るサッカーワールドカップ会場
北海とバルト海を結ぶキール運河とハンブルク
壁で分断された都市:ベルリン(その2)
壁で分断された都市:ベルリン(その1)
地球が見える 陸地・地形

付録:
ライプツィヒ所縁(ゆかり)の音楽家たち:
後期バロック音楽の作曲家であるゲオルグ・フィリップ・テレマン(1681〜1767年)はライプツィヒ大学で法学を学びました。当時は同時代の作曲家であった大バッハやヘンデルより、人気があったということです。
後期バロック音楽の作曲家ヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1685〜1750年)は音楽家一族のバッハ一族の一人で、オペラ以外の幅広い分野でおよそ2000曲を作曲しました。「大バッハ」とも呼ばれます。
ロマン派の作曲家フェリクス・メンデルスゾーン(1809〜1847年)は、それまで忘れられていた大バッハのマタイ受難曲の再演を行い、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の初代首席指揮者を務め、ライプツィヒ音楽院を開校しました。
ロマン派の作曲家ロベルト・シューマン(1810〜1856年)はライプツィヒ大学とハイデルベルク大学で法律を学びましたが、音楽家への夢を捨てることができず、高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、音楽評論家、作曲家となりました。妻クララはヴィークの娘です。
歌劇、楽劇の作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813〜1883年)はライプツィヒに生まれました。
クララ・シューマン(1819〜1896年)はライプツィヒに生まれ、少女時代からピアニストとして成功し、ロベルトの死後は子育てのため、精力的に演奏活動を行いました。ドイツの100マルク紙幣には、クララ・シューマンの肖像が採用されています。
滝 廉太郎(1879〜1903年)は1901年4月、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ王立音楽院に留学しましたが、わずか2ヵ月後に肺結核にかかり、1年で帰国せざるを得ませんでした。これは、日本人の音楽家がヨーロッパに留学した初めての事例となりました。

ハレ所縁の音楽家:
大バッハと並ぶバロック音楽最大の作曲家とされるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759年)は、大バッハと同じ年にハレで生まれ、ハレ大学で法律を学びましたが、音楽への情熱を断ち切れずにハンブルクへ出て、作曲家となりました。1712年にロンドンに移住し、1727年にイギリスに帰化しました。
本文ここまで。
画像:人工衛星の情報を掲載 サテライトナビゲーター
画像:衛星利用の情報を発信 衛星利用推進サイト
画像:衛星から見た地球のデータ集
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